干潟の利用

 かつて、東京湾内湾の沿岸一帯には広大な干潟が存在しました。干潟と人間のかかわりは沿岸に存在する貝塚遺跡が物語っています。その後、江戸時代に入ると徳川家康の町づくり構想によって干潟の埋立が開始されました。以後、正徳、享保、明治、昭和時代と埋立は継続され、東京湾沿岸の干潟の殆どが消失しました。現在、東京湾に残存する干潟は@船橋の三番瀬、A谷津干潟、B金田の盤洲干潟、C富津干潟のみです。

kaizuka また、金田地区に位置する東京湾最後の自然海岸の情景を残す盤洲干潟の語源は、沿岸に横たわる漁村集落の「バンズ部落」から出たものです。干潟は、古来より、人々の「ミソギ」の場であり漁猟の場であったと伝えられています。昔、江戸幕府は江戸湾を幕府の御菜場として管理し浦々に漁民を育成して「猟師」の称号を与えました。その後、猟師の称号は時代と共に薄れて現在は漁師と呼ばれています。東京湾に本格的な漁業組織が結成されたのは、1816(文化13)年6月、武蔵(東京都)、相模(神奈川県)、上総(千葉県)三国44浦の名主と漁業総代によって「内湾漁業協定書」が締結され、漁猟大目38職名が決定した時に始まります。干潟で行う漁業としては、海藻採り、のぞき漁、うなぎ漁、アサリ熊手漁があります。その後南方型漁業を伝承した「スダテ漁」が参入して、干潟漁業は今日まで昔の漁法そのままの姿で継承されています。特にスダテ漁は庶民の大名遊びとして人気が高まり、近年盛んになってきています。

 現在、この地域の漁業としては、遠浅の干潟を利用した海苔養殖とアサリ養殖があげられます。房総沿岸の海苔養殖は、江戸・四谷の海苔問屋・近江屋甚兵衛が1821(文政4)年に現在の君津市人見の地で成功したことに始まります。それが木更津へ広がったのは、1896(明治29)年になってからのことです。現在、木更津市で海苔養殖に携わる人は577人、海苔のとれ高は約25億7千万円(共に1988年)ですが、携わる人は年々減少し、また気候変動や海の汚れなどの影響を受けやすいため、とれ高の変動が大きいのが問題点です。アサリは、明治30年代までは干潟で自然に育った貝を採集しただけでしたが、明治末頃より浦安地方よりタネを買って養殖を始めたといわれています。市内には、金田・岩根・木更津の各地区にアサリを育てる養貝場があります。また、これらの地区の海岸には潮干狩り場があり、毎年地元をはじめ関東各地から30万人前後の人々がやってきます。

 現在、地球環境危機論が叫ばれているなかで、干潟が地球環境を守るためにも大きな役割を果たしていることを忘れてはなりません。干潮時に露出した干潟は空気中の酸素を吸収し、満潮時には海水に酸素を補給して海水に大きな活力を与えています。また、汚れた海水を干潟によって浄化する作用も、一日2回の干潮時に繰り返されています。これらの自然現象が干潟の干潟の生態系を永久に保持し、良好な干潟は野鳥の採餌場となり、アサリ、ゴカイ等の底生動物の成育の場として、更には人間に対して無限の恩恵を与えています。

 しかしながら、近年、湾岸地帯における土木工事の進展によって干潟は大きく破壊され、汚染されてきています。古来から人間とかかわった貴重な干潟を私たちの努力によって、21世紀の子供達に継承しなければなりません。